日々の中にふと立ちのぼる感情や、何気ない出来事の中に残る小さな思索。
そんな、見過ごしてしまいそうな「こころの風景」をすくい上げ、ひとつの小さな作品として綴っています。
今回は特別編として、ある違和感を出発点に、自分自身の感情や考え方を見つめ直しました。
今回の作品は、
・「信用できない人の、存在価値」
をテーマに、他者への不信感と、自分の中にある評価や感情について考えたエッセイです。
信用できない人の、存在価値
- 女子サッカーに関するSNSの投稿を読んでいると、ときどき、どうにも納得できないことがある。
- 文章は整っているし、言っていることも一見もっともらしい。それなのに、読み終えると、何かが引っかかる。
- 話の焦点がズレているように感じたり、そこから導き出される結論に飛躍があるように思えたりする。
- もちろん、自分の理解が間違っている可能性もある。そう思って複数のAIに意見を尋ねることもあるが、自分が感じていた違和感と重なる分析が返ってくることも多い。
- それで自分の見方が正しいと証明されたわけではない。それでも、同じような違和感が何度も続くうちに、いつしか、その人の投稿を読む前から身構えるようになっていた。
- また、話がズレているのではないか。
- 気がつけば、個々の発言だけでなく、発信者そのものを信用しなくなっていた。
もっともらしさと、本質は別のもの
- 文章がうまいことと、物事の本質を捉えていることは、必ずしも同じではない。
- 肩書きや知名度があれば、発言にも説得力を感じやすい。しかし、それらが発言の正しさを保証するわけではない。
- 女子サッカーについては、情報を発信する人が決して多いとはいえない。だからこそ、限られた発信者の言葉が、議論のきっかけになることもある。
- 本当は、物事の本質を捉えた人が発信し、その言葉を起点に議論が深まっていくのが理想なのだと思う。
- けれども、影響力と見識の両方を備えた人が、いつでも十分に存在するとは限らない。
- 影響力があっても、論点を正確に捉えているとは限らない。反対に、物事をよく理解していても、その人の言葉が広く届くとは限らない。
信用できなくても、役割はあるのかもしれない
では、信用できないと感じる発信者には、何の価値もないのだろうか。
そう考えると、少し迷いが生じる。
その人の発言に納得できなくても、それを読んだ誰かが疑問を持ち、別の意見を述べ、議論が始まることはあるかもしれない。
もちろん、議論が始まれば何でもよいわけではない。出発点となった発言の論点がズレていれば、議論そのものが本来考えるべき問題から離れてしまうこともある。
それでも、何も発信されなければ、議論そのものが始まらない場合もある。
情報発信者が少ない世界では、そんな役割を担う人がいてもよいのかもしれない。
発言を信用する必要はない。見識を高く評価する必要もない。
ただ、その人が存在することで、誰かが何かを考え始める可能性まで否定する必要はないのではないか。
そんなふうに考えることにしている。
それでも、どこかで侮っている
そう考えたからといって、その人への不信感が薄れたわけではない。
もっともらしい言葉で語られているのに、肝心なところがズレている。そんな投稿を目にすると、どうしても冷めた目で眺めてしまう。
正直にいえば、どこかで相手を侮っているのだと思う。
発言を疑っているだけのつもりが、いつの間にか、その人自身を自分より低い位置に置いて見ている。
相手の論点のズレを見抜いているつもりで、実は、自分のほうがよく分かっているという感覚に浸っているだけなのかもしれない。
相手に問題があると感じることと、自分の判断がいつも正しいことは、別の話だ。
納得できないまま、考えている
一度失った信頼を、簡単に取り戻すことはできない。これからも、その人の投稿を読んで違和感を覚えることはあるだろう。
それでも、信用できないことと、存在価値がないと考えることは、分けておきたい。
だからといって、無理に相手を尊重したり、信頼したりする必要もない。
ただ、自分の中にある不信感や、相手を侮る気持ちまで、すべて正当なものだと言い切れるわけでもない。
相手への評価は、まだ変わらない。
自分の感情も、きれいに整理できたわけではない。
信用できない相手の存在を認めることと、その相手を見下すこと。
その間には、どれほどの距離があるのだろう。
免責・補足
本記事は、OpenAIのChatGPTを専属編集者兼・思考の批評者として活用し、対話を通じて生まれた考えを整理したものです。
本文に登場する発信者やその発言に対する評価は、筆者個人の受け止め方や解釈に基づいています。特定の人物の見識や価値を断定することを目的としたものではありません。また、AIとの対話で得られた分析も、筆者の考えの妥当性を保証するものではありません。
AIの意見を参考にしながらも、最終的に何を感じ、どう考えるかは自分自身の問題です。本記事は、そうした思考の過程を記録した一つの試みです。
