日々の中にふと立ちのぼる感情や、何気ない出来事の中に残る小さな思索。
そんな、見過ごしてしまいそうな「こころの風景」をすくい上げ、ひとつの小さな作品として綴っています。
毎回、ひとつの物語・詩・エッセイとして、日常の一場面をお届けします。
今回の作品は、
・怒らなくなったのは、慣れたからだろうか。
を描いたエッセイです。
怒らなくなったのは、慣れたからだろうか。
自転車に乗っていると、思いどおりに進めないことがある。
先日、川沿いの細い道を走っていたときのことだ。
道の真ん中を歩く人や、走る人がいる。そのまま追い抜くには道幅が狭く、いったん距離を取って相手の動きを見る。気づいて道を譲ってくれるのを待ちながら、通れる場所を探す。
そんなことが、何度か続いた。
最初のうちは、少しイライラしていた。
もう少し端に寄ってくれれば、通りやすいのに。
もちろん、後ろから来る自転車に気づいていないのかもしれない。だからといって、無理に追い抜くわけにもいかず、結局はこちらが様子を見ながら対応する。
一度なら気にならなくても、何度も続くと、少しずつ面倒に感じてくる。
ところが、二時間ほど走っているうちに、不思議な変化が起きた。
五回ほど同じ場面を経験し、六回目くらいから、何も思わなくなっていたのだ。
相手の動きを見て、距離を取り、通れるところから追い抜く。
やっていることは変わらない。
変わったのは、自分の感情だった。
人は、慣れることで変わるのだろうか
気になったので調べてみると、同じ刺激を繰り返し受けるうちに反応が弱まる「馴化」という現象があるらしい。
今回のことも、それに近いのかもしれない。
ただ、別の可能性も考えられる。
最初は、相手が気づいて道を譲ってくれることを期待していた。しかし、同じことが続くうちに、相手の動きを見て自分で対応することが当たり前になった。
あるいは、どうすればよいかがわかり、いちいち考える必要がなくなったのかもしれない。
実際のところ、何が原因だったのかはわからない。
ただ、イライラしなくなったこと自体は、悪いことではないと思う。
何度も腹を立てるより、その方が楽だ。相手の行動を変えようとするより、自分にできることに集中した方が、余計な消耗も少なくなる。
けれど、少し気になることもある。
気にならなくなることは、よいことなのか
気にならなくなったのは、状況を受け入れられるようになったからなのだろうか。
それとも、期待することをやめたからなのだろうか。
仕事でも、人間関係でも、最初は気になっていたことが、いつの間にか気にならなくなることがある。
相手に期待しなくなったのかもしれない。何度も経験するうちに、対応に慣れたのかもしれない。
外から見れば、どちらも同じように見える。
しかし、気にならなくなったことと、気にする必要がなくなったことは、同じなのだろうか。
その違いは、案外大きいのかもしれない。
心は、知らないうちに変わっている
今回の出来事について、はっきりした答えは出ていない。
慣れたのか、期待が変わったのか。それとも、いくつかの要因が重なっていたのか。
ただ、最初はイライラしていたのに、いつの間にか何も思わなくなっていた。その変化は確かにあった。
人の心は、何かを決意したときだけ変わるわけではないのかもしれない。
繰り返し経験するうちに、少しずつ変わっていくこともある。
そういえば、以前は気になっていたのに、いつの間にか何も思わなくなったことが、ほかにもあっただろうか。
それは、慣れたからなのか。
それとも、何かを期待することをやめたからなのか。
免責・補足
本記事は、日常の出来事をきっかけに、自分の感情や考え方の変化を振り返ったものです。本文中の心理的な解釈は、個人的な考察であり、専門的な診断や学術的な結論を示すものではありません。
執筆にあたっては、OpenAIのChatGPTを専属編集者兼・思考の批評者として活用しています。構成や表現の整理だけでなく、自分の考えを多角的に見直し、論点や解釈に偏りがないかを検討するための対話相手として利用しています。
なお、記事の内容や最終的な見解については、筆者自身の責任においてまとめています。
