「本物」を名乗るコメント欄の罠

  • YouTubeのコメント欄には、たまに妙な既視感を覚える光景がある。
  • 「やっと本物のチャンネルを見つけました!」
  • なでしこジャパン関連の動画に投稿されたこのコメント、一見すると純粋な称賛に見える。しかしよく読むと、続く一文がきな臭い。「近年にわか解説者や自称解説者がAIを駆使しうんざりしていたところでした」。
  • なるほど。つまりこういうことだ。AI=にわか=偽物、そしてこのチャンネル=本物、という方程式である。
  • 論理の飛躍が、サッカーのスルーパスより鮮やかだ。
  • AIを使っているかどうかが、なぜ「本物」か「偽物」かの基準になるのか。原稿を手書きしていれば本物で、ワープロを使えば偽物だった時代が、かつてあっただろうか。むしろAIをうまく活用して取材・分析・編集の質を高めているクリエイターは今や珍しくないし、それを「にわか」と切り捨てるのは、道具への無知を堂々と晒しているに過ぎない。
  • 問題はしかし、コメントだけにとどまらなかった。
  • 投稿主の返信がこうだ。「今後も『真っ当なライターさんなどの出演者による楽しいサッカー番組』にしていきますので、よろしくお願いします」。
  • 「真っ当な」
  • この一言が、コメントの図式をそっくりそのまま追認してしまっている。AI活用者は真っ当でない、と言外に宣言したも同然だ。本人に悪意はないだろう。ただ目の前の称賛に気持ちよく乗っかっただけかもしれない。しかしその結果、二人の間で「AIを使わない我々=正統派」という価値観が、根拠もなく公に共有されることになった。
  • これは、サッカー界隈に限った話ではない。
  • 「本物」「にわか」「自称」といった言葉は、しばしば実質的な批評を回避するための便利な煙幕として機能する。何が具体的に問題なのかを論じるのではなく、属性でレッテルを貼ることで、思考のコストをゼロにする。そしてその構図に乗っかる側も、仲間意識と優越感を同時に得られるという、なかなかに巧妙な相互報酬システムである。
  • 皮肉なのは、AIが「にわか」の道具として槍玉に挙げられている点だ。現実はむしろ逆で、AIを適切に使いこなすには、問いを立てる力、情報を批判的に読む力、文章を構成する力が問われる。雑な使い方をすれば雑な結果が出る。それはペンでも、カメラでも、取材ノートでも同じことだ。道具の問題ではなく、使い手の問題である。
  • 「本物のチャンネルを見つけた」という安堵感は理解できる。玉石混交のインターネットで、信頼できる情報源を探す苦労は本物だ。だがその「本物」の根拠が「AIを使っていないから」であるとしたら、それはかなり頼りない羅針盤である。
  • 内容で判断してほしい。それだけだ。

免責・補足

本エッセイは、Anthropic社が開発するAI「Claude」を専属編集者兼・思考の批評者として活用し、執筆・構成・表現の精度を高める過程を経て完成しました。

念のため申し添えておくと、これはまさに本文で擁護した「AIの適切な活用」の実践例です。最終的な問いの立て方、論旨の方向性、そして責任は、すべて筆者である人間に帰属します。AIはあくまで優秀な壁打ち相手であり、「にわか」への転落を防いでくれるのも、結局は使い手の側の思考力次第だと、身をもって実感しています。

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